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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
陶はさぞ吃驚しただろう。芸州神領表というのは、その辺一帯厳島の神領であったのである。
兎に角元就は、雄志大略の武将であった。幼年時代厳島に詣で、家臣が「君を中国の主になさしめ給え」と祈ったというのを笑って「何故、日本の主にならせ給えとは祈らぬぞ」と云った程の男だから、主君の仇を討つということなどよりも、陶を滅して、我取って代らんという雄志大略の方が強かったのである。
北条早雲が、横合からとび出して行って、茶々丸を殺して伊豆をとったやり方などよりは、よっぽど、理窟があるが、結局陶晴賢との勢力戦であったのであろう。
元来元就は、戦国時代の屈指の名将である。徳川家康と北条早雲とを一緒につきまぜて、二つに割った様な大将である。寛厚慈悲家康に過ぐるものがある。其の謀略を用いる点に於ては家康よりはずっと辛辣である。厳島合戦の時、恰度五十二歳の分別盛りである。長子隆元三十二歳、次子吉川元春二十三歳、三子隆景二十二歳。吉川元春は、時人梅雪と称した。
熊谷伊豆守の娘が醜婦で、誰も結婚する人が無いと聞き、其の父の武勇にめでて、「其の娘の為めにさぞや歎くらん。我婚を求むれば、熊谷、毛利の為めに粉骨の勇を励むらん」と言って結婚した男である。試合を休めない理由
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