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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
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本日、私は、はじめて、町内会の常会に出席し、当局の熱心な態度に敬服したが、この伝達事項と、指導の要点が、悉く事務的な今明日の問題のみであつて、辛うじて町内会員の生活現状を維持するに必要な事柄が指示されるだけで、いはゆる「建設の目標」が何処におかれてゐるかさつぱりわからない。かゝる常会の空気は、私には物足りないのである。私は、茲に面倒な理窟を云はなくても、町内会の事業なり、運動の方向なりに、是非とも、「町内の郷土化」更に進んで、「郷土の理想化」の精神が、その片鱗だけでも見えてゐたならと思ふ。
かういふ目標がおのづから町内会によつて示されなければ、一般に「隣組の家族化」は恐らく困難であらう。仮に出来たとしても、それは偶然であり、その家族化は、やがて、旧来の家族至上主義に陥ること受け合ひである。
もちろん、国民として、個々の国策に協力することは絶対に必要であるのみならず、それによつてこの戦ひを勝ち抜くといふ信念をあくまでも固く持してゐなければならぬが、私は、少くとも、国民の一人として、われわれの生活が、今日の指導者の指導に従つてゐるだけで、果して、日本人としての誇るべき生活にまで築きあげられるかどうか、大に疑ひをもつものである。
あとは個人々々の心掛けにあるといふなら、私はそんな無責任な指導ならまつ平ご免を蒙りたい。国民は、政府のためにあるのではなく、国家のためにあるのである。国民の指導は、国家の理想顕現を目標として行はるべきであり、焦眉の急に応ずることを口実として、日本人の生活を精神的に涸渇させるやうなことがあつては、まことに由由しいことである。
私は今度隣組長の役を買つて出た。買つて出たといふ意味は、別に選挙をされたわけでもなく、特にみんなから私にやれと強ひられた覚えもないが、最近の常会で、どうも私自身この役を引受けた方がいゝといふ気にふとなつたからである。(昼間、家でぶらぶらしてゐるのは私だけだといふ負け目もあつて)
かねて私は、今の政治が、当面の問題、殊に、戦争の経過につれて、どうしても急に解決しなければならぬ事柄の処置に没頭しがちで、国家百年の計を樹てるといふやうな点にあまり注意が向けられてゐず、為政者も、口では遠大な理想を説くけれども、実際政策の実行に当つては、云はば、目の前の仕事に追はれ、国民の指導と云つても、すぐに結果の現はれる要求のみを突きつける有様である。
ドストイエフスキイの小説は、人類の残した業績の最も偉大なものの一つであることは云ふまでもないが、この天才が露西亜に生れたといふことを、われわれは特に注意すべきであると思ふ。混沌たるが故に深いのではなく、深いが故に錯乱を想はせる異常にして素朴な魂の光芒を、われわれ日本人の精神の世界に見出さうとすることは殆ど不可能である。文学の地図は一民族の領土を限りなく含んでゐるけれど、所詮本質を異にする土壌に咲く花の香りには、誇るべき限界があるとしなければならぬ。
この観点に立つて、ドストイエフスキイの人と芸術とに触れることが、われわれにとつて無上の驚異であり、啓示なのである。
自国文学の特性が従来とその方法を変へようとしてゐる時、わが国の現代文学に一種の皮肉な影響を与へた「悪霊」の作者の全集が、既に定評ある米川正夫氏の名訳によつて更めて通読されたならば、人々は恐らくは新しい尺度をもつて、一人の異国作家の魅力を高く価値づけるであらう。...
これで根本的な問題だけはとりあげたつもりである。
都市の代表的娯楽としての興行物のことにも及びたいのであるが、これは、もう書く暇がない。
私は、明日の船で満洲へ渡るつもりである。新興国家の新興都市、新京の現状を見るのが楽しみである。そこでは、民族性を超え、しかも、五族協和の姿を映した理想的近代都市の建設過程が、果して私の眼を驚かすかどうか? そこには若く未熟でも、健康な文化の実が結びつゝあるかどうか?...
学生には、何よりも、学生であるといふ自信と気楽さを与へ、次に、所属の学校に対する信頼と愛情とを吹き込み、更に、今日最も肝腎な注意として、日本国民の真の再組織は、彼等の時代に於てこそ力ある発展段階に入るものであることを心に期せしめなければならぬ。
一〇、剛健な気風を養ふと称して、近時、再びまた肩を怒らせ、一種の蛮声を張り上げるやうな学生の型を生ぜしめつゝあるのは考へものである。かかるポーズは、年少者の他愛なき英雄主義を満足させるだけで、決して、底力ある勇気と緻密な頭脳の涵養にはならぬ。この反動的な虚勢の赴くところは、国民一般をして、学生に親ましめず、神経質な青年を陰鬱な懐疑に陥らしめ、遂に普通の人間を剛健そのものゝ精神から離反させる効果しかないのである。絶えず撃剣の構へをしてゐるやうな表情も、一部青年指導者の好みに適つてゐるやうだが、戦国時代の武者修業ならいざ知らず、そんな気取りで国民の価値は少しも高められず、却つて、この武術にのみは必要とされる凝結心理の相貌は、自由な思考の力と、背面の声に気附く敏感性とを鈍らせるおそるべき受難型である。われわれの都市風景は、この大なる受難の時に当つて、学生のみがその苦悩を背負つてゐるやうに見えても相成らぬ。それで暢気千万な自堕落書生が、影をひそめてしまふならまだしもだが。
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八、姿勢、歩き方、話し方の、著しい醜い癖を直す。現代礼式の一般を教へ込む。学生は都市の街頭に於る秩序の保持者をもつて任じ、端正な市民の一模範たることを身を以て示すやうに訓練される。これは決して固苦しい意味に於て行儀がいゝとか、真面目腐つてゐるとかいふことではない。学生の姿を見かける市民の誰もが、その若々しく頼もしい次代の市民に微笑みかけたくなるやうなものでなければならぬ。
九、学校当局は、新しい学生の生活訓練に於て、十分研究された独自な方法を実行するのであるが、一二の不心得者がその結果、ヘマをしでかしたからと云つて、その案をすぐに引込め、すべて事なかれ主義で臨むことは最も悪質の保守教育であることを自戒すべきである。
六、専門学校以上は、教師の監督のもとに、男女学生の交互寄宿舎訪問を許す。このために必要な社交室の設備をする。ダンスはいけないが、ピンポンやテニスぐらゐはやらせる。数校の合併による、男女合唱団など作るのもよい。ピクニツクにも教師引率の下に連れて行く。在学中、恋愛は絶対に禁制である。
七、外出は届出によつて自由である。休暇は短いが、帰省のためにだけ与へる。学生の外出には必ず服装検査を受ける。帽子の被り方や、その他の点についていちいち監督者は注意を与へる。習慣を作らせるためである。これは軍隊式だが、しまひにはそれをやらぬと気がすまなくなる。
三、中学以上は必ず寄宿舎を設け、従来のやうな監督法でなく、また従来のやうな賄制度でない、新鮮溌剌たる青年の気分に適した、もつと温かみと空想に富んだ、知らず識らず秩序の悦びを味ひ得るやうな協同生活を実行せしめること。
四、この寄宿舎には、なるべく、教師が交替で学生と寝食を共にし、所謂自由主義的な甘さを克服した人生修業の先達に任じること。四十歳以上の教師は特別の志望者のみに限る。但し、最初は、相当ごたごたするかも知れぬ。やつてみればこれは案外教師にも歓迎される制度だらう。
五、女学生も同様寄宿舎に容れる。こゝでは、問題が少しやゝこしいが、ともかく、その指導精神については研究する。そしてこゝでも、女学生に家庭及び社会生活の第一歩を修得させると同時に、万一の場合に備へて、軍陣看護学、一般兵食調理法、その他、戦場に於る後方勤務に必要な基礎訓練を行ふ。要すれば非常時の化粧、服飾美学の概論を授けてもいゝ。
かゝる性格はまた、不意に同じ場所に落ち合つた他人同士の、その時に必要な協力をも妨げる場合が多い。これらの例だけでも、かう観ていくと、社会のため、ひいては国家のため、どれだけの損失を積み重ねてゐるかゞわかると思ふのである。国民総力の結合が叫ばれてゐる際、われわれの力はたゞ機械的に結合されるだけでは十分と云ひ難い。一人一人の力が、精神が、いつ如何なる場合と雖も、立ちどころにぴつたりと結びつくことが望ましい。祖国のためにと云へば、なにびとも、誰とでも手を握るであらうといふ信念は、市民としての日常生活のなかでは、さうはつきりと人には見えぬ。そのはつきりとは見えない、なんの気なしの仕事のなかに、真の国民の協力が大きな結果として期待されるのである。
八...
われわれは子供の頃から、まことに無意識に人を脅迫し、また、脅迫されつゞけて来た。
まづ、泣きわめくことによつて母親を脅迫した。人前でしばしば行儀をわるくするのは、「あつち」へ行つてお菓子をもらふためであつた。父親に小遣をせびる一番有効な方法は、友達に借金をしたといふ口実である。
両親は両親で、お灸、押入、お巡り、人浚ひ、学校の先生などを持ち出し、ご飯をたべさせぬとか、家の中へ入れない、などと無法なおどし文句をならべた。...
これは、かの「世間」といふやうなものとは別に、われわれ日本人の性情や知能のうちに、宿命的な原因がひそんでゐるからだと思はれる。狭量とか、短気とか、一徹とか、それらのことにも関係はあらうし、さらに、私は、別の角度から、「表現力の貧しさ」といふものに、大きな原因を認めなければならぬと思ふ。「表現力の貧しさ」は、結局、「説得力の弱さ」である。説得できないのに目的を達しようとすれば、たゞ、直接間接、脅迫の一手あるのみである。「泣き落し」もまたしばしば相手の感情的弱点をねらふ「おどし」にすぎぬ。
先日来の新聞に、進駐軍司令部から続いて発せられた二つの興味ある「脅迫禁止」の指令がのつてゐた。当事者はおそらく、それが「脅迫」になるとは思つてゐなかつたかも知れぬが、それほど、これに類する事実は、日本では月並で、誰も問題にしなかつたのである。そこがまた私には興味のあるところで、「脅迫する」方も、「脅迫される」方も、平生は、別にそれほどのことと思はず、お互に習性のやうになつた感情のやりとりを平気でしてゐるわけである。それは結局、ちよつとした意志表示が「脅迫」の色を帯び、あたり前の要求が「脅迫」めいて受けとられることにもなるのであつて、われわれの生活と「脅迫観念」とがつねに離れがたい関係にあるといふ一面に通じるのである。
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