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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
彼はおそらく、責任感の強い人物であつたらう。しかし、それ以上に、自尊心の強い男であつたに相違ない。工事の成否よりも、ことによると、自分の面目の方を重大に考へる一個の人物が目に見えるやうである。しかしそれは決して、彼に限つたことではあるまい。人物教育はさういふ風に行はれた時代であり、当時の「世間」はまた、是が非でも、不運な彼を殺さずにはおかぬ「世間」なのである。それは必ずしも責任を問ふなどといふ意味ではなく、失敗を恥辱として嘲笑し、人を嘲笑することを無上の快とする風習のためである。
私はこの話を、かつて、日本の一工兵将校に話してきかせ、その所見をたゞしてみた。彼は直接に私の問に答へず、その代り、彼がアメリカ留学時代、たまたま、所属してゐた工兵学校の教官が、学生一同に「技術者の責任」といふ話をしたことを想ひ出したと云ひ、これとよく似た実話を私に伝へてくれた。
この人物は幸ひ腹を切らずにすんだが、いつたい、なぜ、工事がうまくいかなかつたといつて腹を切らねば気がすまぬのか? これは決して純然たる「責任感」のためではないにきまつてゐる。いはゆる「面目がつぶれる」と自分で思ひ込むからである。「面目」といふのは、元来「矜り」とはいくぶん違ひ、それより一層、相手を意識し、相手の思惑を勘定に入れた、他人の眼にうつる自己の値打を意味する言葉であつて、この場合、自分の失敗が公衆によつてどう受けとられるかといふ予想が知らず識らず前提となつてゐるのである。彼は、自分の仕事に精根を打ち込んだであらうが、それと同時に、世間が自分の仕事の真の性質を理解せず、その成否にのみ興味をつなぎ、結果によつては、彼の着眼と努力とに一顧の礼も払ふことなく、たゞ、嘲罵を以てこれに酬いるであらうといふこと、つまり「世間」の実体を身にしみて知つてゐたのである。
日本人の社会意識とか社会感覚とか云はれるものが、実際はどういふ風なものを指すのか私にははつきりしないが、少くとも、この世間といふ概念の中に含まれる感情的要素が変らぬ限り、健康な社会意識も社会感覚も生れるはずはないと思ふ。
「世間を憚る」といふ思想が公けに是認せられて今日に至つてゐる証拠はいくらでも挙げられるが、それが国民道徳教育の中に取り入れられてゐる事実に気がついてゐるものは少いかも知れぬ。
旧い教科書ではあるが、第四学年であつたかの修身に「責任」といふ標題をつけた一文がのつてゐた。九州の、農村で画期的な水利工事を完成した人物の事蹟を伝へたものである。その人物がいよいよ工事を完成し、村民あまたの前で、石の水道に水を引いてみせるといふ日の朝、家を出るに当つて、短刀を懐ろに忍ばせ、万一、工事に不備なところがあつたらその場で腹を切る覚悟をきめてゐた、といふ話である。...
われわれの「人生」は、この「世間」の裏打ちによつて営まれてゐる。それゆゑ、この「世間」の風波の中に個人が生きることが、すなはち「人生」だといふ認識こそ「うき世」といふ言葉を作り出したものと云へよう。
西洋でも「人生」は憂患多きものとされてはゐるが、この「世間」といふ概念をそれに結びつけるとしても、日本のそれほど「冷酷」な調子を含んではゐない。
これは、云ふまでもなく、個人の自覚と、社会の発達とが「世間」を多少ともあたたかく、愛想よくしたからである。つまり、世間は、少くとも主観的には日本の場合ほど「暗く」もなく「無気味」でもなくなつたのである。...
われわれ日本人が「目上」のひと睨みや官憲の暴圧といふやうなこと以外に、おほむねたえず一種の脅威を感じてゐるもの――そんなものは感じないといふ例外もあることは事実だが――は、なんと云つても、いはゆる「世間」であらう。世間の眼といひ、世間の口といひ、世間の思惑といひ、世間の義理といひなどするのは、いづれも、漠然と自分を取り巻く周囲の動向を指すものであり、それには、特定の個人の場合とは比較にならぬ、ある不可抗力にも似たものを認め、その反応をもつて時には致命的なものと考へるから、法律や道徳と関係なく、事毎に「世間を憚る」といふ意識が頭をもたげて来る。
それなら「世間」とはいつたい何か? もちろん「社会」といふ概念とは一致しないが、その道徳と習慣と、特に群集心理によつて支配される意志表示とを重くみた考へ方で、それはまた、自己保存のほかなんらの理想をもたず、非情とも云ふべき形式的な掟の上にたち、すべての異分子的存在を排撃する本能の極めて目立つ、地域的、時代的に限られた一社会を指すものと思はれる。
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実に馬鹿げた話で、なにかの間違ひとでもいふならとにかく、税金を納める能力なしと認められる貧農なら、この鼻息はちとをかしいといふことは、いくら子供にでもわかると思ふ。どこがをかしいのか? それを教へるのが真の教育でなければならぬ。しかるに、このをかしいところを、をかしくないと力説しなければならぬわが国の教育は、畸形の美しさを説く結果になるのである。云ふまでもなく、この老人をしてかゝる行動に出させた真の動機は、国民の義務を履行しようといふ熱意などではなく、たゞの負け惜しみと一種の自己宣伝にすぎないことはその白々しい口上自体がこれを語つてゐる。このやうな人物は、実は隣人としてなんびとも歓迎はせぬであらう。しかも、それがしばしば美談の主としてたゝへられる世の風潮をまた誰が防ぎ得よう。
現在のところ、われわれがわれわれの間で「完全な人間像」を求めることに絶望してゐる証拠は以上の如くである。
そこで、畸形的なものそれ自身の価値と美とを強調してゐる事実を示さうと思ふのだけれども、これまた既にその一、二にふれておいたから、それから推していけば誰にでもわかることである。
念のために、国民学校の教科書が用ひてゐる例をあげる。教科書そのものは変つたかも知れないが、さういふものが通用してゐた事実が明らかになればよい。...
かういふ風にみられてゐる「政治」といふものは、そもそもほかの国に存在するだらうか? これはしかし、日本の政治そのものの実質がさうみられるやうなものであるのか、または、実質とは関係なく、日本人たる国民の眼にたゞさう映じるだけなのであらうか? 私は、まさにその両方だと云ひたいのである。日本の政治は、日本人がこれに当るかぎり、たしかに畸形的な、グロテスクな相貌を呈せざるを得ぬ。しかし、国民は、それをその通りには見てゐない。役所と云へば役人だと思つてゐるやうに政治といへば政治家そのものをしか考へないから、そこには「全き人間」による「全き政治」のすがたを空想する余地がないのである。
それは、普通の概念に於ける政治と、われわれの国の政治とは、どんなに制度をかへてみても、そこに根本的な喰ひちがひがあるやうに思はれるからである。つまり、政治の概念と、実際の通念との間には、理想と現実との間に於けるやうな距りがあることを感じてゐるのである。「かうすればかうなる」といふことは、日本の政治の場合に限つて当てはまらないやうな気がしてゐる。天皇も政府も議会も新聞も、なにがどうなつても、それは日本の政治をこれ以上わるくもしなければよくもしない、と高をくゝつてゐる。それはいつたいなぜだらう。なぜといふことははつきり云へないけれども、なんだか日本といふ国はさういふ国のやうな気がしてゐるのである。
われわれの社会、われわれの同胞のすがたからはどうしても受けとることのできなかつた「全き人間」のいのちの息吹きが、やうやくそこで、われわれの魂の故郷を告げ知らせる。精神の愉悦が言葉どほりのものとなるのである。
最後に、政治に対する国民の関心について。――専制政治が原始的な政治であることは云ふまでもない。同時に、専制政治が民衆を畸形的な人間に作りあげるとしても、専制を脱しようとする民衆の健全性は認めなければならぬ。その意味では、専制政治は、一方、民衆に最も健全な人間的自覚を与へるべき筈である。それが、日本の場合はどうであらうか。現在のこの未曾有の事態に処して、われわれはまだ政治といふものを、いくぶん人ごとのやうに考へてゐる。
文学作品の場合はどうか。欧米の小説がわが知識層に圧倒的な歓迎を受ける最大の理由は、単なる流行は別として、そこには、たゞ「人生らしい人生」が描かれてゐるからである。「人間らしい人間」が、一切の距りを超えて、われわれ異国の読者に親しく話しかけるからである。デンマークの王子もフランスの売笑婦も、ロシヤの農民もアメリカの主婦も、すべて、人間としての完全な皮膚をもつて生き、すなはち欲望し、祈り、嘘をつき、笑ひ泣いてゐる。読者は、それらの作品によつて、全身を撫でまはされるといふ感じがする。日本の作品がやゝきまりきつたところを撫でるのとは大ちがひである。われわれは、西洋文学によつて、自分のからだの隅々に、さまざまな感覚が眠つてゐたことを教へられ、自分の「全身」がはじめて生気をおびて来るのを感じる。
西洋映画から受ける好もしい印象の重要な一部は、映画としての優秀性は別として、私に云はせれば、それをそれとはつきり云ふものはないが、結局、「西洋」そのものの在り方、云ひかへれば、西洋人の生き方の人間的な自由さにあると思ふ。つまり、畸形的なものが当り前で通用してゐない健全な生活の表情が、われわれにとつてはひとつの驚異なのである。
このことは、西洋に於ては既に理想社会が生れてゐるなどといふこととは違ふ。断るまでもないことであるが、悪徳と悲惨と滑稽とは、恐らく、西洋のどこへ行つても、日本と大差なく見られるであらう。それはまた西洋の文学や映画が示すとほりである。それにも拘らず、その悪徳と悲惨と滑稽とは、単なる悪徳と悲惨と滑稽なるに止まつてゐて、それはそれで、人間が人間であり、それ以上でも以下でもないことを物語るだけのものである。といふ意味は、悪徳の前には神の裁き(或は良心)と懺悔とが、悲惨のうしろには涙と救ひとが、滑稽のかたはらには微笑と哄笑とが程よくあしらはれてあれば、それが人間の健全を証明するのである。不幸にして、われわれの社会では、この両面の均衡が保たれてゐない。
それから、一般国民、特に知識層、そのなかでも青年たちの「西洋」に対する関心について。――この問題はやゝ複雑であるけれども、大体に二つの傾向をとりあげて、一つを大衆的な好奇心、一つを教養にもとづく西欧文化の正当な価値づけとする。そして、そのいづれにも共通な、漠とした憧憬に似たもの、異質的ではあるが、ゆたかな人間生活の形態と表現とに対する魅惑がそこにあることは否定できない。それは決して機械文明の発達を羨むといふやうな単純な心理ではない。さういふ面もなくはないけれども、やはり、機械文明の発達に先だつもの、人間の尊重と、幸福の追求と、社会生活の合理化に向けられた偉大な精神の歴史が、そこでは畸形的なものをほとんど例外としてしか残さず、個人に於ても、また集団に於ても、常に「生命の完きすがた」が自然に呼吸し行動する世界を形づくつてゐる、その現象の云ふに云はれぬ魅力に心惹かれるからである。
それが畸形的であらうとなからうと、一人物の「面白い」ところを描かうとする趣向は作家に共通なものであるけれども、その「面白さ」が「人間」の破片にすぎない場合がわが国の作家の場合には極めて多い。一人物の「面白さ」が如何なる特質によるにもせよ、その人間全体の生活を背負つての「面白さ」であるところに、西洋文学の強味があるといふことはたしかである。西洋の作家は、期せずして、「全き人間」のすがたを読者に示すことを努め、これを「全き人間」の関心と叡智とによつて、才能相当の「活かし方」をしてゐる。これが、西欧文学にのみあつて、わが国の文学に欠けてゐる、理想的人間像形成の熾烈な意慾なのである。
文学に於てすでにさうである。その他の芸術分野に於ても、美術はその造形性をもつて、音楽はその複雑な音色とリズムとをもつて、演劇はその観念と感覚の時間的空間的な抑揚を通じて、人間精神のあらゆるひだに喰ひ入る野心を示してゐる。人間を形づくるすべての機能は、文学芸術の関り知らぬ隙間といふものをもたないといふことが、現代作家の正常な願望なのである。
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