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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
私は5年以上前に酷い歯茎の炎症に悩んだことがありました。
正確には歯茎だけでなく、舌炎にもかかって、とにかく激痛で、食事もとれないほどになってしまったのです。...
昔から、「話をしてみるとどんな人間かわかる」といわれているように、「話し言葉」や表情によって、その話そうとすることがら以外に、その人の年齢、男と女の区別、性格、教養の高い低い、職業、またはどこの国かとか、なんの時代かまではっきりとあらわれるものである。
これだけでも「話し言葉」がどんなに大切かよくわかると思うが、「話し言葉」の美しさをいつも心がけているということは、つまり国語を大切にするということであり、劇をすることによって、劇を見せる方も見る方もこの訓練が自然にできるはずだから、君たちの熱意は、やがて、最近のみだれた国語の品位や魅力のかいふくに大きな役割をはたすことになるのである。
劇がおたがいの勉強になるという意味は、劇にしくまれた「物語」の内容が、なにかしら新しいことを教えるばかりではない。第一に、劇というものは「話し言葉」のもっとも生き生きとした使い方、人間の表情のもっとも正しいあらわし方によって、ひとつの面白い場面がつくりあげられるのだから、劇をほんとうに面白いものにするためには、どうしてもみんなが、「話し言葉」の美しさと、表情のけだかさとを身につけ、それを正しく読みとる訓練をしなければならない。
美しい「話し言葉」や表情は、役者や俳優を職業とする人たちにかぎらず、すべての人間に必要なことであって、それはちょうど、自然の美しい風景をながめたときと同じように人の心をひきつけ、印象づけて、こころよい感じをあたえる。
子供たちが集まって劇をするということは、楽しい遊びであると同時に、おたがいの勉強であるということを忘れないようにしたい。
楽しい遊びであるからには、思う存分、自分が面白いと思うように、そして、人も面白がるようにやるのがいい。自分だけが面白く、人にはそれほど面白くないというようなやり方、あるいは、人を面白がらせようとばかりあせって、自分はそのためにかたくなったり、したくないことをしたりするのは、たいへんまちがったやりかたである。
劇というものは、がんらい、見せる方と、見る方とたがいに力をあわせ、気もちをそろえて、そこにできあがる美しい全体の空気を楽しむものなのである。...
アントワアヌの如きは、今日に至るまで、机上に堆高く積まれた原稿を、根気よく片端から読んで行き、百のうちに一つでも掘り出し物があれば、「自分の仕事は無意義でない」と思つてゐる。キユレルなども、その点にかけては、頼母しい先輩だと云ふ話である。
一興行二時間半乃至三時間半、その間に、一作家の一作品を上演する。それが原則であるから、劇場主と作者と主役俳優との関係は頗る緊密である。一つの出し物が「当れ」ば幾月でも打ち続ける。歩合でふくらむ作者の懐ろ加減想ふべしである。
たゞ、営利を目的としない劇場では、交互上演法によつて、出し物を毎日入れ替へる。一攫千金を夢みる作者は、かう云ふ劇場をあまり悦ばない。...
成るほど、仏蘭西(英独あたりでも同様だと思ふが)のやうな国では、劇作家が舞台以外で自作を公表する方法が無い。従つて、上演しさへすればその価値を認められるやうな作品でも、比較的長く人目に触れないでゐることが多いかも知れない。せめて印刷されて、読まれる機会でもあれば、さう云ふ人達に取つては幸せであらう。然し、一方で、さう云ふ国の劇場主は、競つて優れた新作品を探し出さうとしてゐる。勿論、評価の規準はまちまちに違ひない。たゞ、「佳いものなら、上演しよう」と待ち構えてゐる劇場が相当にある。大家のもの、人気作者のものでなければやらないと云ふやうな劇場も可なりあるにはある。が、それだけまた、権威ある批評家、劇壇の耆宿、理解ある舞台監督等が、常に、若い無名作家の原稿を読んで、佳いものがあれば相当の劇場に推薦することを努めてゐる。
そこで、今後注目に価するのは、此のCGT劇場である。無資力無後援の隠れた才能を世に出すと云ふのが同劇場の目的であるとすれば、必ずしも主義宣伝劇に終始するわけでもあるまい。
一度上演された脚本は、始めて単行本として印刷される可能性ができるわけである。前にも述べたやうに、脚本の原稿を本屋や雑誌社に売込むと云ふことは先づ絶対に無いと云つていい。この点、日本などゝ反対のやうであるが、今、遽かにその可否を断ずることは出来ない。
この革命党、政治的主張は、甚だ過激であるが、職業の立場からは、なかなか如才がない。一方、筋肉労働者と握手して、君等こそ、われらのカマラアドと誓ひを立てながら、組合で劇場を立てるために、一度砂をかけたブル劇作家協会に寄附を申込んだ。
一寸面喰つたのはCGTの荒武者連である。「劇作家つて云や芝居の筋を作る先生だが、名前を見て見ると、一向聞いたことのない名前ばかりだ。アンリ・バタイユとか、トリスタン・ベルナアルつて云ふやうな先生はどうしてへえらねえんだ」と疑い出した。「そんなら、劇作家がへえつたつて、別にCGTの名誉にもならねえ」と思つた。然し、同病は日ならずして相憫み、相愛し、相助けるやうになつた。こゝで特筆すべきことは、貧乏ではないがコンミュニストの一劇作家は、久しくヴォオドヴィル座に原稿を「眠らされ」てゐたが、劇作家組合に加入して、CGTの仲間入をすると、すぐに同劇場の機械係、小道具係、電気係等の運動でその脚本が上演され、サンヂカリズムの予期せざる効果が現れたことである。
一方に、大家あり、流行作家あり、一方に駈出しあり、不遇の自称天才あり、これを総称して劇作家と云ふも、その実は、全く別種の人間である。一方が王侯の生活を営み一方が道ばたの溝掃除に等しい暮しをしてゐるからと云つて、それがあながち不公平だとは云へないわけである。然るに、弱いものが集つて団体を作り、少し強味を感じ出すと、その団体は頭と尾と妙に反りが合はなくなる。その団体はつまり頭のためにのみ存在するやうな観を呈して来る。尾の方が、それでは承知しない。此の尾の方に属する連中が、頭の連中に対抗して更に一団を形ることになる。それが、新しく起つた劇作家組合である。つまりプロ劇作家協会である。プロ劇作家は左傾党である。従つてサンヂカリズムの共鳴者であるのみならず、モスコオの国際労働組合と気脈を通ずる連中である。早く云へば革命党である。
一度制作劇場を飛び出したサルマンは、将来自作を自分が演ずることはできないわけである。そんな無法な話はない。こゝが論争の起点である。アントワアヌやベルンスタインなどが頻りにサルマンの肩を持つてポオの横暴を責めた。ポオは飽くまでも契約書と、二人の関係と、当時の情誼的交渉とを楯に取つて譲らない。制作劇場でなら何時か上演する。それ以上云ふことはないと頑張る。その間に、今日まで作者に支払つた上演料などの真相が暴露して、サルマンに同情するものが殖えてくる。サルマンはたうとう劇作家協会に加入して、その力を藉りることになり、結局、云ひ分だけは通つたが、少々男振りを下げた。偉くなると昔のことは忘れたがる。相手は、昔のことばかり云ひたがる。お互にわるい癖だ。
なかなかいい人に出会えない、話が合わずに先に進まないなど、不満を抱えていませんか。
いい人との出会いというものは、自分の意思だけでは叶わぬことも多く、合コンや見合いも何回も繰り返してもいい人に出会えない人がたくさんいます。...
最近に制作劇場主ルュニェ・ポオを相手取り、元同劇場専属俳優にして劇作家なるジャン・サルマンが、自作の上演権取戻しに関する争議を捲き起し、一時劇壇の注目を惹いた。時節柄、ポオは四面楚歌の声を受けて、たうとう譲歩したやうだが、これも、劇作家協会に加入してゐなかつたサルマンが、ポオの搾取に遇つてゐたわけである。それは表面の問題で、実際、二十を越えたばかりのサルマンが、自作を上演して貰へると知つたら、どんな契約にでもサインしたに違ひない。処が、其のお蔭で、此の青年は新進作家の錚々たる列に加へられる。さうなると、もうポオから小僧扱ひにされるのが癪に触る。そのうちに、出世作「影を釣る人」を持つて細君と一緒に旅行がしたくなつた。ポオが承知しない。契約書をつきつける。制作劇場以外では上演しないことゝ書いてある。
最近に制作劇場主ルュニェ・ポオを相手取り、元同劇場専属俳優にして劇作家なるジャン・サルマンが、自作の上演権取戻しに関する争議を捲き起し、一時劇壇の注目を惹いた。時節柄、ポオは四面楚歌の声を受けて、たうとう譲歩したやうだが、これも、劇作家協会に加入してゐなかつたサルマンが、ポオの搾取に遇つてゐたわけである。それは表面の問題で、実際、二十を越えたばかりのサルマンが、自作を上演して貰へると知つたら、どんな契約にでもサインしたに違ひない。処が、其のお蔭で、此の青年は新進作家の錚々たる列に加へられる。さうなると、もうポオから小僧扱ひにされるのが癪に触る。そのうちに、出世作「影を釣る人」を持つて細君と一緒に旅行がしたくなつた。ポオが承知しない。契約書をつきつける。制作劇場以外では上演しないことゝ書いてある。
会規は一々こゝで挙げる必要もあるまい。同協会と契約を結んでゐない劇場で会員の作品を上演することはできないとか、会員が個人的に関係のある劇場で自作を上演させる場合の特規とか、殊に、協会と劇場とが取交した契約より不利な条件で、会員がその劇場の一つと契約を結ぶことは出来ないとか、会員が自己の経営する劇場で自作を上演する場合の制限とか、(これは興味のある問題で、久しく仏国劇壇を騒がした。結局、劇場創立後三年間は無制限に自作を上演し得るが、その後は、或る割合で、他の劇作家の作品を上演する義務を負ふことになつた)その他、劇作家一般の利権擁護に関して詳細な規定が出来てゐる。
劇作家協会は、多数劇作家の利権のために少数の劇作家を敵としたこともある。即ち、劇作家にして劇場主たる少数の幸運児を相手取り、前述の義務履行を迫るために訴訟を提起した。弁護士レイモン・ポアンカレは、当時、劇作家協会のために光彩ある弁論を試みた。嘗て代議士ミルランが、議会に於いて、自由劇場の功績を称へて、政府の没理解を攻撃したのと一対の佳談である。そして、日本の名ある政治家に一寸真似なりとして貰ひたい芸当である。 ...
五十年と云ふ作家遺族の利権は、屡々、論議されたが、その長きに過ぐと云ふ説に反対して、「文学者の子孫は、概して、父祖の精神過労による健康上の影響を受けて、生活能力の微弱なことが統計上示されてゐる。従つて、父祖の恩恵を蒙るべき期間は、他の場合と同一に視てはならない。」と云ふ社会的主張が勝を制したと云はれてゐる。
そこで、上演料に関する現行規定であるが、実際は、各契約に於いて協定されるので、作品の価値、殊に作者の名によつて、更に劇場の性質によつて差異がある。たゞ、あくまでも、一興行収入(純益に非ず)の歩合制度を守つてゐる。その歩合は、八乃至一八パーセントの間を上下してゐる。例へば、ポルト・サンマルタン座は一〇パーセントと云ふ規定であるとすれば、一晩の収入が二万法以下のことはないのだから、二千法になる。一晩三百円なら、そんなに悪くない。
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