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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
この時の大隈の意見が、あまりに急進的であつたため、大隈は廟堂から追はれて、後年の改進党を組織したのである。されば、憲法制定、立憲政体の実施については、政府に於ても、明治天皇の大御心に依つてその大方針が確立してゐたのであるから、当時に於ける自由民権運動の騒ぎは、藩閥政府の強権に対して、不平分子が国会開設の名を利しての抗争とも見るべきであらう。
憲法の調査起草に率先して当つたのは、伊藤博文であるが、その主旨とするところは、英仏流の憲法ではなく、わが国体を基礎とする「日本の憲法」であつた。伊藤は、憲法調査のために外遊し、憲法学者、独逸のグナイスト、墺国のシュタインに教へを聞き、仏蘭西、英吉利を歴訪して、参考資料を蒐めて帰つた。
当時の最高知識たる井上毅は、金子堅太郎、伊東巳代治を率ゐて、その起草に惨憺たる苦心をしたのである。...
されば、明治十二年の夏、アメリカのグラント将軍が来朝するや、明治天皇は、将軍を浜離宮に召されて、政治上の事を、いろ/\御下問になつたが、将軍の、
「承るところに依れば、日本にも国会開設の議論がある由、いづれ憲法を御制定になることと存じますが、何事も忌憚なく言上せよとの御沙汰であるから、申上げます。日本の憲法は日本の歴史及び習慣を基として、御起草あそばさるゝことこそ最も願はしく存じます。」
と、いふ意見が、よほど御思召に叶つたやうであり、同年末には、立憲政治に就いて、山県有朋、黒田清隆、山田顕義、伊藤博文、大隈重信などの各参議に対して、意見の提出をお求めになつて居られる。
明治時代に創始された立憲政治の起源は、維新当初の五箇条の御誓文である。いな、御誓文は、当時すでに実行されて、各藩選出の徴士、貢士が、後年の代議士のやうに国政に参与してゐたのである。たゞ、この公議政治がよく理解されず、政治の運行が円滑に行かないので、薩長の政治家達が、強力な藩閥政府をつくり上げてしまつたのである。
が、既に、公議政治の何物であるかを知つた国民が、藩閥政府の専横を見るにつけ、国民参政の要求をなすのは、当然であつた。殊に、征韓論で破れた板垣退助が、立志社を組織し、国会開設の建白を成すや、人心が翕然として集り、自由民権運動が、天下を風靡した。
が、五箇条の御誓文に依り、憲法を制定し、立憲政治を行ふといふことは、明治天皇の叡慮であつたと拝察してよい。...
が、この征韓論の決裂に依つて、多くの反対勢力を野に放つた明治政府は、爾後数年間、苦難の道を歩まねばならなかつた。
現在でも、学生間では、歴史的人物としては、第一に人気があると云はれる西郷隆盛の、生前に於ける大衆の輿望は想見すべきで、その西郷を魁首とした薩軍の蹶起は、明治政府にとつては、現在の我々が想像する以上の危機であつたのである。
が、大久保を中心とする政府は、よくその措置を誤らず、徹底的に之を鎮定して、明治政府の基礎を確立すると共に、新興日本から不平分子を一掃したのである。後年の立憲政治も、この安定した国情の上に築かれたのである。...
明治六年の征韓論に就いての廟議の紛糾は、当時の重臣間に於ける文治派と武断派との意見の対立ではあるが、武断派の思想的背景としては、西洋文明の輸入に快からざる保守主義的傾向、攘夷思想の変形である国権論、武士階級の撤廃に対する不満、薩長専制に対する不平などが横はつてゐることを見逃すことが出来ない。
偶々、岩倉大使と共に欧米を巡遊して、その燦然たる文明の諸施設に驚嘆し、殖産興業に依る富国強兵の大策を、土産として帰朝した大久保利通の眼には、征韓派の主張は、時代知らずの書生論としか映らなかつたのであらう。彼が、断乎として反対したのは当然であらう。
が、当時の征韓論は、たとひそれが当時の情勢から云へば無謀であつたとしても、やはり発展的日本民族の気魄であつて、この気魄があればこそ、後年日清、日露の大戦勝となつたのである。 ...
たゞ、当時の各藩は、水戸の天狗騒動で、武田耕雲斎が、わづか数百の兵力で、中部日本を押し通るのを、傍観してゐたのでも分るやうに、軍備的に無力であつたのと、天皇親政の中央集権的情勢が天下を風靡してゐたので、利害的にも、人情的にも、至難と思はれた廃藩置県が、見事に断行されたのである。西郷隆盛が、
「お互に数百年来の御鴻恩、私情に於ては忍び難きことに候へども、天下の大勢かくの如く、全く人力の及ばざるところと存じ候」
と、述懐してゐるのを見ても、当時の実情が分り、その局に当つた岩倉、大久保、西郷、木戸等の苦衷は察せらるべきである。が、この廃藩置県をはじめ、廃刀令、徴兵令その他明治政府の革新政策に対する武士階級の不平不満が、やがて、西南戦争その他の変乱となつて、勃発してゐるわけである。...
明治元年正月の鳥羽伏見の戦ひで始まつた維新戦争は、翌二年函館の幕軍が降伏して、一段落となり、輝かしい天皇親政の御世となつたが、しかし天皇親政の障害となるものは、徳川幕府だけではなかつた。...
この時に於て、明治天皇は三條実美を召されて、徳川家の旧勲を失はざるやうに処置せよ、との有難き宸翰を賜うてゐる。
これらの聖恩が、たゞに徳川氏をしてその家祀を全うせしめたばかりでなく、明治維新の大業をして容易に成就せしめた所以なのである。
戊辰奥羽諸藩の処断に於ても、詔して今日の乱は九百年来の弊習の結果であると、大いに藩主等の罪を恕し、今後親しく教化を国内に布き、徳威を海外に輝かさんことを欲する旨を、告げたまうた。恐懼の限りである。...
あれほどに激湍渦を捲いた、維新の政治史に於て、われ/\は此の日本歴史に特有な美談佳話を探さうとするならば、他にもいくつも挙げられるだらう。
伏見鳥羽の戦争がまさに一触即発といふ時、大坂城に在る慶喜のもとへ、岩倉卿から一使者が遣はされた。孝明天皇御一年忌に際し、慶喜に対して献金のことを申出でたのである。恐懼した慶喜は、勘定奉行に命じて、直ちに五万両を朝廷に奉つてゐるのである。想へ、京都は今や薩長の精兵によつて充満し、幕兵一掃といきり立つてゐる時である。大坂城は、江戸から上つた竹中陸軍奉行の大軍によつて守られ、京都に対して、一戦に及ばんと、陣容を整へてゐる最中である。これらの物々しい空気の中にあつて、大坂城と京都御所を結んで、一脈清冽の気の相連つてゐるのを見る、われ/\日本人は如何に幸福であらうか。
伏見鳥羽の一戦に朝廷の汚名を着た、徳川慶喜に対する処断は、当時諸説紛々で、初めの中は死刑論が圧倒的に多かつた。薩長の諸将は慶喜を憎むこと甚だしく、ぜひこれを誅戮して、刑典を正さねばならぬと主張する者が多かつたのである。...
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「かわいそうなパトラッシュ。お前も、わしと一しょに、安楽往生をするのかい。」
ジェハンじいさんは、やせこけた皺だらけの手で、犬の頭をなでました。このおじいさんと老犬とは、いつも、パンの皮を分けてたべました。そしていつも同じ心で、年を取るのを嘆きつつ行末のことを案じ合うのでした。お互いが死んでしまったら、あとに残るあの可愛いネルロはどうなるでしょう。
ある日の午後のこと、少年と犬とが、アントワープからのかえりみちでした。雪は凍って、まるで大理石のようにひろい野原にしきつめていました。ふと足許を見ると、可愛らしい人形が落ちていました。五六寸の、たいへん美しい太鼓叩きの人形で、ちっとも傷のついていない立派なおもちゃでした。ネルロは拾い上げて、いろいろ探してみましたが、落し主が分らないので、それをアロアにやったら、さぞよろこぶだろう、とかんがえました。落し主が分らないのだから、それを長い間の仲よしにやっても、別にわるいことではあるまい、と彼は思ったのでした。
「パトラッシュ、お前はもううちでねておいでよ。お前ももう隠居してもいい頃だ、大丈夫、僕ひとりで車はひけるから。」と、ネルロが無理にも止めようとしたのは、一朝や二朝のことではありませんでした。が、パトラッシュはききません。毎朝、起きると、彼はちゃんと梶棒のところへ行っています。そして、今まで長の年月通い慣れたその野道を、雪を蹴って、進むのでした。ただ少年に、以前より手数をかけるのは、牛乳車の輪が、凍った轍の跡にはまって、動きのとれない時、後から棒をさしこんでもらうだけでした。これだけ、昔より力がおとろえたのです。
「死ぬまでは休息と言うことはない。」パトラッシュはいつもこうかんがえていました。が、ときどき、ふっと、その最後の休息が、間近に迫って来たようにかんじられて、なんだか目が前ほどはっきり見えなくなったし、教会堂の鐘が五つ鳴って、パトラッシュに、起きて働かねばならぬ時が来たと知らせると、ぱっとはね起るのに変りありませんが、それが前とちがって、非常な苦痛にかんじられるのです。
春と夏と秋を打っ通して、ネルロはこの大作の完成に余念がありませんでした。もしこれがうまく栄冠を担えれば彼にとっては、年来の宿望に向って第一歩をふみ出すことになるのです。ネルロはこの企てを誰にも言いませんでした。おじいさんに言ったところで分ってはもらえないし、それはアロアは、もう彼にとって、ないも同じでした。打ち明けるのはただ犬のパトラッシュだけ。そうしていつも、
「ああルーベンス、ルーベンスの魂が知っていたら、きっと僕をえらび出してくれるのだが。」とつぶやくのでした。パトラッシュもまた、こんなことを考えていました。ルーベンスと言う人は、きっと犬を愛していたにちがいない。もし犬を深く愛していたんでなければ、あんなに正しく、美しい、犬が描けるものではないと――。
出品する画は、いずれも十二月の一日に運ばれて、その月の二十四日に結果が発表されることになっていました。で、もしうまく、入選すれば、クリスマスには二重のよろこびを持てるわけでした。身を切るような寒風の吹き荒ぶその日、ネルロは波打つ胸をおさえて、いよいよでき上った苦心の画を、牛乳車にのせて、パトラッシュと一しょに、町へ運んで行きました。そして、きめられた通りに展覧会の入口のところにおきました。 ...
さて少年には、パトラッシュのほか誰にも知らせない一つの秘密がありました。小屋には小さな次の間があって、そこはネルロだけが入るところになっていました。ひどく荒れた部屋ですが北側から光線が入ります。この部屋でネルロは、木片で無細工な画架をこしらえ、それに大きな紙を張り、そこへこれぞとおもうものをぜひ一つ描きあげようと一生懸命になっているのでした。ネルロは、誰にも画の描き方を教わったことはありません。むろん、絵具を買う余裕などもありません。ただ、白と黒の使い分けで目にうつるものを描くだけでした。いま、彼が木炭筆で描いたばかりの大きな画は、一人の老人が、倒れた樹に腰を下しているところ、ただそれだけです。少年は以前、年取った樵夫のネッセルが、夕方になると、そんな様子で休んでいるのを度々みたのでした。輪廓の具合や影の描き方など、誰におそわったでもないけれど、ネルロは自分の考え一つで、さも老いぼれた、つかれた老人を描きました。宵闇がせまって来る暮れどき、倒れた樹に腰を下して、あらゆる世の苦労をなめつくしたようなつかれたかおつきで、じっと思い沈んでいるこの老いた樵夫の様子は、全く詩の趣きがありました。
おじいさんはだまってしまいました。ネルロの無邪気な言葉を聞いて、おじいさんにはすっかりわけが分ったのです。老いぼれて、長い間、掘立小屋の中にねたきりではありましたが、おじいさんは、まだ、世間がどう言うものかと言うことを、忘れてはいませんでした。おじいさんはやさしく孫の美しい顔を自分の胸のへんに引きよせて、
「お前は貧乏な子だからのう。」
その声はかすれてふるえました。...
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