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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
僕が、尋問を始めようとすると、警部と巡査とは、その男を床の上に、座らせようとするのです。男は首を挙げようとして、喉の傷を痛めたとみえ、歯を食いしばるようにして、じっと、その苦痛を忍びながら起きようとするのです。
『苦しければ、そのままでいいよ』と、僕が注意をしますると、警部はそれを遮るように、
『なに、大丈夫ですとも。気管を切っているだけですから、命には別条ありません』といいながら、今度はその若者を叱るように、...
死にそこなった男の方は、別室に移されていて、医者の手当を受けていたのです。僕が臨検した主な目的は、相手の男を尋問して、無理心中ではなかったか、また、たとえ合意の心中であったにしろ、男の方に自殺幇助の事実がなかったかを確かめるためだったのです。
二人が遺書を認めていることで、無理心中の疑いは少しもありませんでしたが、自殺幇助の疑いは、十分にあるのでした。
僕は、その男を臨床尋問するために、寝かされているという別室へ行ったのです。見ると相手の男は、頭を角刈にした、二十歳前後の、顔の四角な職人らしい男でしたが、喉の傷をくるくる巻いた繃帯が、顎を埋めてしまうほど、ふくらんでいました。顔には血の気がなく、どろんと気の抜けたような目付をしていましたが、傷が致命傷でないことは、医師でない素人目にも、すぐ分かりました。
まだ、そうした場所に馴れなかった僕は、一目見ると、その悽惨な情景から、ぞっと水を浴びるような感じを受けましたが、立会いの警部や書記などの手前、努めて冷静を装いながら、まず女の傷口を見ました。見事に頸動脈を切ったとみえ、身体中の血潮がことごとくその傷口から迸ったように、胸から膝へかけて、汚れ切ったネルの寝衣をべとべとに浸した上、畳の上から廊下にかけ、一面に流れかかっているのでした。が、傷口を見ているときに、もっと僕の心を打つものは、その荒み果てた顔でした。もう確かに三十近い細面の顔ですが、その土のようにかさかさした青い皮膚や、目尻の赤く爛れた目などを見ていると、顔という気はどうしても起らないのです。人間だという気さえ起らないのです。ただ、名状しがたい浅ましさだけを、感じたのです。
僕は、その梯子段を、かなり元気よく上ったのです。すると、先に上った警部は、上り詰めると、急に身体を右に避けるようにするのです。僕は、そんなことを気にしないで、かまわず上りきったのです。すると、梯子段を上りきった僕の足もとに、異様な品物が――その刹那は、本当にそう思ったのです――転がっているのです。が、はっと気が付いてみると、僕の靴下をはいた足は、そこの廊下に仰向けに倒れている女の、振り乱した髪の毛を、危く踏むところであったのです。その時の、僕の受けた激動は今でも幾分かは思い出すことができるのです。僕は、心中という以上、どこかの部屋の中にでも、尋常に倒れているものだと思っていたのです。よく見ると、心中はその梯子段を上ったとっつきの四畳半で行われたとみえ、女が倒れかかるはずみに、はずれたらしい障子の中の畳には、どろどろと凝り固まっている血が、一面にこびり付いているのです。その血の中に、更紗か何からしい古びた蒲団が、敷き放されていて、女の両足は、蒲団の上に、わずかばかりかかっているのでした。天井が、頭につかえるほど低い部屋の中は、小さい明り取りの窓があるだけで、昼でも薄暗いのですが、その薄暗い片隅には、心中前に男女が飲食したらしい丼とか、徳利などが、ごたごた片寄せられているのです。壁は京都の遊郭によくある黄色っぽい砂壁ですが、よく見ると、突き当りの壁には、口に含んで霧にでも吹いたように、血が一面に吹きかかっているのでした。
心中があった楼の前には、所轄署の巡査が立っていたので、すぐそれと分かりました。
僕が俥から降りたときには、裁判所を出るときに、持っていたような興奮も興味も残っていませんでした。
その楼は、この通りに立ち並んでいる粗末な二階家の一つでした。入口を入ると、土間が京都風に奥の方へ通っていて、左の方には家人や娼妓たちの住んでいる部屋があり、右はすぐ箱梯子になっていて、客がそのまま二階へ上れるようになっているのです。...
が、俥がそれらしい大門を通りすぎて、廓の中へ駆け込んだとき、下ろした幌のセルロイドの窓から十一月の鈍い午後の日光のうちに、澱んだように立ち並んでいる、屋根の低い朽ちかけているような建物を見たときに、それが名高い色街であるというだけに、いっそう悲惨なあさましいような気がしたのです。衰弱し切った病人が、医者の手から、突き放されて、死期を待っているように、どの家もどの家も、廃頽するままにまかせられているような気がしたのです。定紋の付いた暖簾の間から見える家の内部までが、どれもこれも暗澹として陰鬱に滅亡して行くものの姿を、そのまま示しているように僕には思われたのです。
俥が、横町へ折れたとき、僕の目の前に現れた建物は、もっと悲惨でした、悲惨というよりも、醜悪といった方が、適当でしょう。どれも、これも粗末な木口を使った安普請で、毒々しく塗り立てた格子や、櫺子窓の紅殻色が、むっとするような不快な感じを与えるのです。煤けた角行灯に、第二清開楼とか、相川楼などと書いた文字までが、田舎の遊廓にでも見るような下等な感じを与えました。
「俥が、大門を潜ったとき、『ああ島原とはここだな』と、思うと同時に、かなり激しい幻滅とそれに伴う寂しさとを、感ぜずにはいられなかったのです。お恥かしい話ですが、僕が島原へ行ったのは、その時が初めてです。僕は高等学校時代から大学へかけて、六年も京都にいたのですが、その時まで、昔からあれほど名高い島原を、まだ一度も見たことがなかったのです。一、二度、友人から『花魁の道中を見にいかないか』と、誘われたことがあったのですが、謹厳――というよりも、臆病であった僕は、そんなところへ足踏みすることさえ何だか進まなかったのです。
だから、大学を出て間もないその頃まで、僕の頭に描いた島原は、やっぱり小説や芝居や小唄や伝説の島原だったのです。壮麗な建物の打ち続いた、美しい花魁の行き交うている、錦絵にあるような色街だったのです。
従って、その日――たしか十一月の初めでした――上席の検事から、島原へ出張を命ぜられたとき、僕は自分の心に、妙な興味が動くのを抑えることができなかったのです。島原へ行く、しかもその朝行われた心中の臨検に行くというのですから、僕は場所に対する興味と、事件に対する興味とで、二重に興奮していたわけです。...
「いや、貴君が、小説家として、法律の点に注意をしているのは感心です。どうも、今の小説家の小説を読むと、我々専門家がみると、かなりおかしいところがたくさんあるのです。懲役の刑しかないところが禁錮になっていたり、三年以上の懲役の罪が二年の懲役になっていたり、ずいぶん変なところがあるのです。それに、小説家のかく材料が、小説家の生活範囲を一歩も出ていないということは、かなり不満です。我々の注文をいえば、もっと、法律を背景とした事件、すなわち民事、刑事に関する面白い事件を、材料として大いに取り扱ってもらいたいですな。一体、完全な法治国になるためには、各人の法律に関する観念が、もっと発達しなければだめです。それには、もっと君たちが、法律に関係のある事件をかいてくれて、法律というものが、人間生活にどんなに重要な意義を持っているかということを、一般に知らしてもらいたいと思うのですがね。もし、君がかくつもりなら、僕が検事時代の経験をいろいろ話して上げてもいいと思いますよ」
そんな、冒頭をしながら、彼は次のような話を、自分にしてくれた。
...
自分は、頭の中で、旧友の中で法学士になっている連中を数えてみた。高等学校時代の知合いで、法学士になっている連中は、幾人もいることはいたが、郵船会社にはいって洋行したり、政治科を出て農商務省へ奉職したり、三菱へはいっている連中などばかりが思い浮んで、自分の相談に乗ってくれそうな、法律専門の法学士はなかなか思い当らなかった。その中に、ふと綾部という自分の中学時代の友人が、去年京都の地方裁判所をよして、東京へ来て、有楽町の××法律事務所に勤務していることを思い出した。上京当時、通知のハガキをくれたのだが、その××という有名な弁護士の名前が、不思議にはっきりと、自分の頭に残っていたのである。
自分は、綾部が、三高にいたときに会って以来、六、七年ぶりに、彼を訪ねた。彼は、学生時代と見違えるほど、色が白くなっていた。そして、三、四年の間検事をやっていた名残りが、澄んだ、そのくせ活気のない、冷たい目のうちに残っていた。彼は、快く自分を迎えて、自分の小説の筋に適合するような犯罪を考えてくれた。刑法の条文などをあちらこちら参考にしながら、かなり工夫を凝らしてくれたのである。その上に、彼はこんなことをいった。
自分は、その頃、新聞小説の筋を考えていた。それは、一人の貧乏華族が、ある成金の怨みを買って、いろいろな手段で、物質的に圧迫される。華族は、その圧迫を切り抜けようとして※く。が、※いたため、かえって成金の作っておいた罠に陥って、法律上の罪人になるという筋だった。
自分は、その華族が、切羽詰って法律上の罪を犯すというところを、なるべく本当らしく、実際ありそうな場合にしたかった。通俗小説などに、ありふれたような場合を避けたかった。自分は、そのために法律の専門家に、相談してみようと考えた。
正行戦死の報が京都に達すると、北朝では歓呼万歳を唱えて喜んだと云う。可なり嬉しかったんだろう。それだけに此の悲報は南朝にとっては大打撃であった。為に後村上天皇は難を賀名生に避けられ、吉野の行宮は師直の放火によって炎上し、南朝の頽勢は既に如何ともし難い。
恐らく正史に於ける正行の活動は数年に過ぎない。亦正成にしても、大体そんなとこである。それで今日までその純忠を謳われるのであるから、人間としてもまずこれ程立派な父子は、日本史中古今稀である。その正成父子に対する崇拝が反尊氏思想となり、日本一の不忠者のように云われ、六百年の後まで、中島商相にまで祟るのである。然し、当時正成の策戦を妨害して、正成に湊川で無理な軍をさせ、事を誤った公卿の子孫である、貴族院の子爵議員などが、今更尊氏の攻撃をするのはおかしい。
...
恰も此の辺は沼沢地であり、走るに不便だ。追うこと暫くして、其の間半町、将に賊将を獲んとした時、賊将上山六郎左衛門、猝って師直の身代りになって討死した。
その為に大分暇をとった。それでも執拗に追撃の手をゆるめなかったが、突然敵方に強弓の一壮漢が現れた。九州の住人、須々木四郎と名乗って雨の如く射かけたから堪らない。
楠次郎は眉間をやられ、正行も左右の膝口三ヶ所、左の眼尻を深く射抜れた。...
正行直属の兵は凡そ一千人位で、当時大和川附近の沼沢地に陣して居た師直の本営を掩撃す可く突撃隊を組織した。
五日早旦、恐らく午前六時頃だろう。正行は自ら突進隊五百騎を提げて、一直線に北に強行突破を企てて居る。敵の前哨は全く蹂躙されて、約半里も北に圧迫されて居る。此の時四条隆資軍に牽制されて居た生駒山方面の敵は、この有様を俯瞰して、四条軍を捨ててどっと山を下り、楠軍の後続部隊に躍りかかった。つまり思わぬ新手の出現で、楠軍の突進隊は後方から切断された訳だ。
此の時正行の手兵僅かに三百。なおも果敢な肉迫戦を続けて行く中、流石の師直の本陣もさっと左右に靡いた。踴躍して飛び込むと、早くも師直は本営を捨て、北方、北条村に退かんとして居る。 ...
然し、少し嘘がある方が、歴史は美しい。児島高徳の桜の落書と云い、『太平記』にも大衆文芸の要素があるのだ。
四条畷の戦は正月五日に起って居る。此の日の戦闘を『太平記』なんかで考えてみると、先ず師直は本営を野崎附近に敷き、その周囲には騎兵二万、射手五百人を以て固めて居る。
その第二隊は生駒山の南嶺に屯し、大和にある官軍に備えて居る。師泰の遊軍二万は和泉堺を占領し、楠軍出動の要地である東条を、側面から衝かんとして集結中である。要するに賊軍の配備は消極的で、東条を包囲して徐々に半円径を縮めんとするものらしい。...
場所は古来伝称の吉野山である。君臣の義相発して情景相具った歴史の名場面ではないか。かくて共に討死を誓った一行は後醍醐天皇の御廟に詣で、如意輪堂の壁に各姓名を書き連ね、その奥に有名な「かへらじと」の歌を書きつけたとある。だが、これはうそである。普通に常識の有る者が、御陵の傍のお堂に、勝手な落書をして行くなんて、考えられないのである。まして、正行の如き純粋な忠臣に於てをやだ。楠公万能の義公であるから仕方がないとしても、『大日本史』までもが『太平記』の真似をして「同盟の姓氏を如意輪堂の壁に題し、歌を其の後に書して曰く」とやって居るのは、どうかと思うのである。恐らく、名前は寺の過去帳に書いて行ったのであろう。それが今、如意輪堂に行くと、堂々と此の歌を書きつけた扉が残って居る。書きつけた壁でも残って居るのならまだしも、扉になって居るのは二重の間違いである。
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