নির্বাচিত পোস্ট | লগইন | রেজিস্ট্রেশন করুন | রিফ্রেস

片口聞いて公事を分くるな

片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。

katakuti

片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。

katakuti › বিস্তারিত পোস্টঃ

さて、かういふと

০৬ ই ফেব্রুয়ারি, ২০১৪ দুপুর ২:৩৮

 さて、かういふと、私は、前に述べた「戯曲至上主義者」の仲間と見られる惧れがある。そこで、私の意見を述べることにする。

 第一に断つておきたいことは、如何なる意味に於ても、理想から云へば、小説と戯曲とは、同じ尺度をもつて計るべきだといふ意見に、私は賛成したいことだ。

 これはつまり、人間の感受性が、極度に発達してゐれば、「言葉」の芸術は、帰するところ、単一な幻象に到達すべきものであり、小説的価値と戯曲的価値とは、微々たる形式の限界を越えて、叡智のあらゆる襞に作用することは想像に難くない。

 これを、逆に考へれば、最も純粋且つ豊富な文学的作品は、その頂点に於て、一切の類型を超越した「美」の創造を企ててゐる。

 小説だ、戯曲だと騒ぐのは、抑も末の末だ。

 悲しい哉、私は、まだ、文学に対して、それ程の野心はもてない。そこで、小説だ、戯曲だと騒ぐわけであるが、まあ、そこまで突きつめて考へないまでも、既に、これまでの経験に於て、甚だ「戯曲的」なる戯曲、必ずしも優れた戯曲でなく、甚だ「小説的」なる小説、必ずしも芸術的価値ありとは云へないことを気づいてゐるし、殊に、意外とも云ふべきは、嘗てある小説の朗読を聴いて、私は、すばらしい「戯曲的」感動をしみじみと味つた記憶がある。この一例をもつてしても

মন্তব্য ০ টি রেটিং +০/-০

মন্তব্য (০) মন্তব্য লিখুন

আপনার মন্তব্য লিখুনঃ

মন্তব্য করতে লগ ইন করুন

আলোচিত ব্লগ


full version

©somewhere in net ltd.