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片方だけの言い分を聞いて判決してはいけない。原告と被告の両方の言い分を聞いて、公平に判定を下さねばならないということ。
しかし、この傾向は、動機の如何に拘らず、演劇の進化に、一つの刺激を齎さないものでもない。日本の劇壇がもし行きづまつてゐるとすれば、この辺から何か新しい発見に到達するかもわからないのである。ただ、演劇の純化を夢みつつあるものは、この「非常手段」が、舞台演劇の本質を駆逐し、俳優と戯曲とを永遠に絶縁せしめるに至ることを懼れるのである。
実際、戯曲として生れた戯曲は、概ね今日、舞台上で、その芸術価値を発揮することができず、たまたまできたにしても、それほど興行価値を高めることにはならないのは勿論、その失敗は、却つて例の脚色物の失敗以上に惨憺たる結果を招くのである。なぜなら、前者には、予めこの失敗を償ふ用意がないからである。言ひ換れば、俳優の「技術を俟つて生かされる要素」を主にしてゐるからである。
演劇をして再び演劇たらしめる運動は、現在の日本にあつては、必然的に二つの道を採らなければならぬ。即ち、初期の築地小劇場式常設研究劇団の組織と、嘗ての自由劇場式職業俳優団の示威的定期興行である。
前者は兎に角、後者は、今後心ある俳優、作者、見物の協力によつて、案外容易に実現する可能性がありはせぬかと思ふ。但し、この運動は表面、商業主義への挑戦であるかの如く見えて、実は、現在の劇場組織と結びつかねばならぬところに、やや困難な問題もあるが、理解ある興行主は、目前の利を離れて、この企てを賛助し、「劇道救済」の戦線に参加するであらう。(一九三一・一)
訪問看護師に転職した姉
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